クンケルは、電話で何か命じた

(たとえ、なんであろうと!) ささやくような声で、いった。「どうぞ、そのひとを、ここへ」 クンケルは、電話で何か命じた。…… 間もなく、扉《ドア》を叩く音がする。竜太郎は椅子から飛び上った。 扉が開いて、軽々とした足音がこちらへ近ずいて来る。竜太郎は、どうしても眼を開けてそちらを見ることが出来なかった。クンケルが、いった。「まいりました」 竜太郎が、おそるおそる眼をひらく、卓の向う側に、どこか険のある、美しい顔だちの娘が立っていた。 竜太郎は、力の抜けたような声で、いった。「このひとではありません」

    五

 竜太郎は、モンマルトルの丘の聖心院《サクレ・クウル》の庭に立って、眼の下の巴里の市街を眺め渡していた。「巴里」は灰色の雨雲の下に甍々を並べ、はるかその涯は、薄い靄の中に溶け込んでいる。まるで背くらべをしているような屋根・屋根・屋根。ぬき出し、隠れ、押し重なり、眼の届く限りはるばるとひろがっている。 右手の地平に、水墨のようにうっすらと滲み出しているのはムウドンの丘。左手に黝く見えるのはヴァンセイヌの森であろう。 廃兵院《アンブアリード》の緑青色の円屋根の上に洩れ陽がさしかけ、エッフェル塔のてっぺんで三色旗がヒラヒラと翻っている。

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