入口に近い座席で

    七

 車室には、うす暗い電灯がひとつだけ点り、ムッとするように粗悪な煙草が濠々とたちこめていた。 床の上には腸詰の皮や、果物の芯や、唾や、煙草の吸殻などが、いたるところに飛び散ってい、汽車が揺れるたびに、そこからひどい匂いがきた。 入口に近い座席で、剽悍な顔つきをした三人の青年がブダ語らしい言葉で激論を闘わしている。いずれも血相を変え、今にも射ち合いにでもなりそうなけしきだった。荒々しいバルカンの気質の中へはるばるとやってきたことをつくづくと感じた。 空は低く、重苦しく、物悲し気だった。 乳白色の濃い霧の間から、冷涼たるコンスタンツァの原野の景色が、時々、ぼんやりとよろめき出してはまた、漠々とその中へ沈んでゆく。――うち挫がれたような泥楊の低い列。霧に濡れながら身を寄せ合っているわずかばかりの羊の群。赤土の裸の丘と、嶢※[#「山+角」、123-下-5]《ぎょうかく》たる岩地。 陽が暮れかけてきて、天地の間の沈鬱なようすは一層ひどくなった。うち沈み、歎き、悼み、一瞥にさえ心の傷む風景だった。 竜太郎は、車窓の窓掛をひき、固い隔壁に凭れて眼をとじる。 バルカンの沈鬱な風景も、荒々しい気質も、猥雑な乗客の群も、竜太郎になんの感じもひき起こし得なかった。巴里の里昂停車場を発ってから、この三日の長い旅の間、竜太郎の思いは、たったひとつのことに凝集されていた。それは、(戴冠式の馬車に向って、真直ぐに歩いて行こう)ということである。 ……白い鳥毛の扁帽を冠った前駆の侍僮が、銀の長喇叭《トロンペット》を吹いて通りすぎる。……ピカピカ光る胸甲をつけた竜騎兵の一隊。……十二人の楯持《エキュイエール》が二列になって徒歩でつづく。王室の紋章を金糸で刺繍した美々しい陣羽織《レ・タバール》組。……槍の穂先をきらめかす儀仗の小隊。それから、いよいよ戴冠式のお馬車がやってくる。六頭の白馬に輓かせた金の馬車の中に、あの夜の少女がもの佗びた面もちで乗っている。

— posted by id at 08:15 pm  

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