一人の若い東洋人

 ……一人の若い東洋人が、群集と警衛の憲兵の人垣の間から飛び出し、ゆっくりと馬車に向って歩いてゆく。……たぶん、五六歩。おそらく、それより多くはあるまい。……一発の銃声がひびきわたり、儀仗兵の拳銃の弾丸が、その胸の真ん中を射ぬく。……若い東洋人は、なんともつかぬ微笑をうかべながら、一瞬馬車の中の王女の顔を見つめ、ゆるゆると舗石の上に崩れ落ちると、それっきり動かなくなってしまう……五色の切紙が背の上におびただしく降り積み、テープの切れっぱしが、ヒラヒラといくつも首のあたりにまつわりつく。ちょうど祝宴の席で酔いつぶれてしまった、幸福な花婿のようにも見えるのである。…… 巴里を発つ時は、街路樹の蔭からなりと、ひと眼見てこようと思っていた。ところで、汽車が動き出すと、とつぜん、思いがけない心の作用が、その決心を変えてしまった。(あの少女は、おれのものだ。……たとえ王女であろうと、なんであろうと……) あの夜、竜太郎の胸の中で、少女が、叫んだ。「あたしは、もう、あなたのものよ。……あなただけのもの。……どうぞ、いつまでもかわらないと、誓って、ちょうだい」 絶え入るように、いくども、いくども、くりかえす。 しかし、明日になれば、地中海の碧い水のうえに、脳漿を撒きちらして自殺するじぶんなのだから、どのような誓いも無益である。黙らせるために、自分の唇で少女の口をふさいでしまった。やはり、どこか、心がしらじらとしていて、調子を合せるほど無邪気にはなれなかった。そんなことは、どうでもよかった。 自殺するはずの、じぶんが、それを実行し得なかったのは、思いがけない急転換《クウ・ド・チアトル》のせいである。もう会えないかもしれないという、その思いが恋情を駆りたてた。……しかし、じぶんが身も※[#「宀/婁」、124-下-6]《やつ》れるまで、あの少女を恋いわたるようになったのは、ただそれだけのためであろうか。じぶんの心は、はっきりと(いな!)とこたえる。少女の誠実と無垢な愛が、じぶんの心情を刺し貫いたためである。へなちょこなじぶんの根性は、純真な愛の平手で横ッ面をぴしゃりとやられ、深いところで昏睡していた本心が、びっくりして眼をさまして、おやッ、と思った。こんな無垢な愛情には終生、二度とめぐりあうことはないぞ。いつのまにかこちらも、命をかける気になっていた。 ところが、ソルボンヌ大学の教授室で、あの夜の少女がリストリアの王女だとわかると、持ちまえのへなへな[#「へなへな」に傍点]心は、一夜の気まぐれに弄ばれたのだと頭からきめ込んでしまった。それならそれで諦めでもすることか、不甲斐ない恋情で身をやつらせ、未練がましく悶えたり恨んだりしていた。(あたしは、あなただけのものよ)

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