廿日鼠は、すばやい眼差しで

 廿日鼠は、すばやい眼差しで、ぐるりとロビイの中を見廻してから、ルーマニヤ語で、囁くように答えた。「政変《ポリーチカ》!」 竜太郎の血管の中で、熱い血が、動悸をうつ。騒擾か革命か? 現実に竜太郎が目賭した範囲だけでも、それは容易ならぬ風貌を示していた。先王ステファン五世の薨去の間もなく起こりうる政変といえば、いうまでもなくエレアーナ王女の登位を主題《テーマ》にしたものに相違ない。 竜太郎は、たずねた。「……それで、……エレアーナ王女殿下は?」どうしても、ひと息では言えなかった。声が慄えていることが、じぶんでも、わかった。廿日鼠は、たまげたような眼付で、瞬間、竜太郎の顔をながめたのち、あわてて書記台の上に顔をふせると、呻くような声で、いった。「存じませんですよ。……どうして、手前などが、そんなことを」 竜太郎の部屋は、運河に臨んだ二階の端にあった。天井の壁に、漆喰細工のキューピッドがついていて、愚鈍な顔をして下を見おろしていた。翼の金箔が剥げ、その上に点々と蠅の糞がついていた。 竜太郎は、ネクタイも解かずに、長い間、じっと寝台に腰をおろしていた。それから、上衣の内懐からそろそろと一葉の写真を取り出して、つくづく眺め入る。 エレアーナ王女は、白い夏の装いで、大理石の広い階段の第一階に、寛濶な面もちで立っている。 竜太郎は、指の先で、転くそこここと写真にさわりながら、こんなふうに、呟く。「君は、王女などでなければよかったんだ。……あの夜、ホテルの土壇で、海に向って泣いていたわけが、今こそ、うすうすわかるような気がする。……何か、さまざまと苦しいことがあるのにちがいない。……僕はこうして、君の写真を眺めてためいきをついているだけで、どうしてあげることも出来ないが、どうか、あまり不幸にならないように、どんなに不幸になっても、せめて、生きてだけはいてくれたまえ」

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