一人の人影もなかった

 一人の人影もなかった。長い廊下の端で、窓掛が風にゆれているだけだった。息苦しいほどの緊張が全身をひきしめる。遠い昔に忘れていた、一種決然たる闘志が発刺と胸に甦ってきた。われともなく、拳を握った。「そういうわけなら、こちらにも覚悟があるぞ!」 それにしても、この長い間、じぶんの懐で温めていた、あの、かけ替えのない写真を盗まれたことは、どうにも諦めかねた。じぶんの身体の中の一番大事な部分が、そのままそっくり抜きとられたような遣る瀬なさを感じた。 竜太郎は、腹の底から怒りがこみ上げてきて、調子はずれな声で、叫んだ。「畜生! どんな汚い手で浚っていきやがったんだ。……どんなことがあったって、取りかえさずにおくものか」 じぶん自身、その写真を、マラコウィッチ伯爵夫人の門番の家から、盗み出してきたことを、竜太郎は、すっかり忘れていた……。 陸軍司令部の大きな鉄門の前には、物々しく土嚢が積まれ、そこでもチェッコ機関銃が蒼黝い銃身をのぞかせていた。 竜太郎は、下士官の控室のような、粗末な部屋の床几で長い間待たされた。査証を受ける外国人が、雨天体操場のようなこの広い部屋にあふれ、四五人ずつかたまりあっては、緊張した顔で何かひそひそと語り合っていた。 竜太郎は、じぶんの隣りに掛けている赭ら顔の英吉利人らしい男に、たずねてみた。「いったい、何が始まってるんですか」 英吉利人は、肩を揺ったきり、返事をしなかった。

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