マリッツァ砲台監獄の地下牢

 竜太郎は、たずねた。「ここは、どこです」 老人は美しい抑揚のある仏蘭西語でこたえた。「マリッツァ砲台監獄の地下牢です」 ぼんやりと、記憶が甦ってきた。 じぶんのペン・ナイフが浅黒い顔をした男の頬を斜めに斬り裂き、おさえた指の股からあふれるように血が噴き出し、ゆるゆると袖口の方へ流れ込んでいたことが妙に鮮かに残っていた。ひと跳躍して、街路樹に背をもたせて喘いでいるやつへ飛びかかろうとしたとき、突然、後頭部に眼の眩むようなひどい衝動を受け、それっきり、何もわからなくなってしまった。 頭の痛みは、いまも、そこからくるらしかった。突き刺すような疼痛をこらえながら、そろそろと手を上げて、指で後頭部にさわると、指先にヌルッとしたものが触った。藁が何かじめじめしているのは、じぶんの頭から流れ出した血で濡れているのだった。(頭の傷など、どうだっていいが) 何か大きな手で、心臓をひと掴みにされたような衝動がきた。身体じゅうの血が一斉に心臓へ向って逆流した。(それにしても、エレアーナ王女はどうなったろう) 肘から血を滴らし、紙のように白くなった王女の顔が、悪夢のように網膜にまつわりつく。映画の大写しのように、突然、顔だけになったり、石鹸玉のようによろめいたりする。竜太郎と、ふと顔を合したときの、あのたとえようのない悲しげな眼差。そのくせ、どこか諦めきったような静謐な色を浮べながら、目礼でもするかのような、ほのかな眼使いをした。(王女も、この地下牢のどこかにいるのではなかろうか) 思いもかけなかった愉悦の感情が、春の水のように、暖かく心をひたし始めた。(じぶんのすぐ側に、あの夜の少女がいる)

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